どちらかというとM

京都在住 主に読んだ本の感想を書いていきます

流れていく4月1日

飲みすぎて意識飛んだ。年度の変わる日の飲み会が楽しすぎてペース配分できず、年度明けにした最初のことが実家のトイレで吐きちらすこと。なんとも趣深い。

前日も大原の温泉宿で意識失って布団かけてもらって当然のような顔をしていたから、年を経るほどに厚顔無恥になるのは避けられないのかもしれない。父を見ているとなおさらそんな家系のような気がする。

 

祖父が実家に帰って来た。祖父の功績から得しまくっているはずの孫である自分は特段のお世話をすることなく1日を終えた。端的に言えば面倒だったので逃げた。祖父は有料老人ホームで静かに余生を過ごしている、と言えたらいいのだが、実のところ、人間って栄養が通る管になってしまえばモノとしてはいくらでも生きられるんじゃないかと言ってしまいたいくらいには生命力に溢れ、その作用でか愚痴を周りにぶちまけ続けているとのこと。ほうれん草にかけまくっているというゴマだれのおかげかもしれない。ゴマだれ好きは祖父譲りなのでそこは納得。

声の大きさゆえに、死にたいというつぶやきがもはや公言といっても誇張にならないその姿は、本人もそれをネタにしている分なんとも異様だ。生きることに執着するのが当然の今の世の中で、生きることに疲れた、と元気そうに、心の底から嘆くのは、もしかしたら究極の贅沢なのかなとも思う。そんな贅沢ができるほどに猛烈に仕事をしてきて功績をあげたのだからぐちぐち言ってあげるな、と思いつつ、介護する母は色々と割りを食っているなとも思う。

 

そんなことを無意識に思いながらぼーっと桜を見ていたから、あやうく図書館の床に爽健美茶をぶちまけるところだった。無理して仕事を終わらせて出てきくれた婚約者と身のある話も特にせず、なんなら自分も引継書書いといた方がよっぽどましだったかもしれない。アァ流されてるなぁと思いながら、これまで見たことなかったほど見事な桜流しの姿が目から離れない。満開の桜の下を音もなく、散りたてで軽やかに流れていく大量の花びら。それぞれ綺麗なままに、川下へと行軍していく華やかなその群れは脳に刺激を与えているようでその実なんの刺激にもならなかった。色々となりたいことを頭の中に並べてるだけで、なんも考えてないよね結局、と誰かに突きつけられているようでもあった。

 

明日から職場での新しい年度が始まる。この一年で感じたことをちゃんと振り返ることもしないまま新しい年度を迎える。色々と身辺が変わりすぎて厄介そうな年度を迎えるには、最終日の過ごし方は無防備すぎた。そんなだから自分のことをちゃんと認めてあげられないんだよ、とか親身な目線で言われたい時間が過ぎていく。まぁ計画性と積極性を今より意識するだけでよくなるよ、と取ってつけたようにポジティブになっておく。そんな27歳の春。

春よ来い

餃子の王将で小説読むやつもうグッナイ 食べてる時にイヤホンで音楽聴いてるやつもうグッナイ

犬食いしてるやつもうグッナイ

 

suchmosのstay tune もどきはここで止めておいて、と食に関して価値観が合わなさそうな人とは長く付き合いたいと思わない。

 

個人的に「餃子の王将」は、カウンター席に座って大勢の料理人が仕事をさばいているところを見に来る場所と思っているので、カウンターに案内されたにもかかわらずそういう仕事人に注目しない人(ぼーっとみることすらせず自分の世界に入り込む人)に、なんだかなぁという思いがつきまとう。

 

なんでこんなネガディブなのかというと、出会い系で知り合った人と丸一日を過ごしてなんか知らんめちゃくちゃ後悔しているからだ。お礼のラインに対しても返事ができていない。あんまりしたいとも思わない。

 

顔や笑い方がタイプじゃなかったのはまぁあるけど、それより「なんかこの感じ知ってる」という既視感があっま。出会い系にどハマりしてるわけではなく、新しい人との出会いがヒリヒリするものになるはず、という期待が軽く裏切られてしまったことがぼんやり虚しかった。

 

小説や映画に対してはまだまだ新鮮味を持って接することができるのに、こと対人関係となるとどうも行き詰まりが生じて来るようになった気がする。共通点がある人とはその共通点の話に終始し、共通点がない人とは遡って共通点を探し出そうとすることに終始している。期待値が高かっただけに既視感があると幻滅する度合いも大きい。当然といえば当然だが新しく知り合った人と自分の過去のことや知っていることを伝え合うのが面倒。

 

一緒にこれからのことを話そう、という気になる人が減ったということなのか、ただただ新しい人と知り合うことが減って感覚が鈍っているだけなのか。

もちろん一年前に比べて先の人生が一年分減っているのには違いないが、それ以上に見通しが立ちすぎていて話す必要を感じない、話したいと思わないというのは大きい。その実何も見えていないのに。この先会うこともないだろうと思うと色々と萎えてしまうのは何故だろう。

 

件のアプリの人が話す愛知の話題は、自分に馴染みある言葉で話されるあまり馴染まないものだった。無理な車線変更を名古屋走りというそうだ、そんなん人によるやろ。栄のこととかも繁華街っていう言葉でひとまとめにするなよもうちょいマニアックなとことか紹介して興味持たせようとしろよ。ほらだいぶネガティブ。

 

 

結局その人もMだったのだ。待つ人。出させる人。施しを受ける人。自分とどこか重なる微妙に卑屈なところが、なんとも退屈で憎らしい。

ありもしない春をまだしばらく待っている。

 

女心って7画なのに6文字も読ませる単語やね

職場にいる女性と関わりを持つことがあるが、やはりというかなんというかなにを考えているかわからない。いやわからなくて当然だが、そもそも女心が分かるということがどういう状態をさすのかもよく知らないままこの歳になった。

女心が男に関係あるのは相手が恋人か恋人になろうとしてる人かだろうとタカをくくっていたのは飛んだ思い違いで、この先の人生でちゃんと向き合わないといけない課題みたいなものなのかもしれない。あーめんどくさい。

 

凪のお暇、という漫画を読む。

空気を読むことで慣れない女社会の環境に馴染もうとしてきた主人公の凪は、積もり積もったストレスがとあるきっかけで爆発して、過呼吸になってしまう。それまでの環境を断捨離して無職としての生活を始めるなかで、空気を読まない=主張を始めることから、凪は少しずつ変わっていく… 

 

女性の生きづらさを、生きづらさの真っ只中から少し離れたところの視点で多角的に映し出しているのだと思う。男の自分が読んでいて理解しきれないところが女心によるところなのかなとも思ったり。

 

と、いうのが1回目の感想。どうも突き放した読み方をしていたせいか、「ほかのどんな漫画読んでも同じ感想になるんじゃないか」と言えるような事しか書いていないのでもう一度読み直してみた。

 

…生きづらさという言葉は特に最近便利で、何かといろんな話題にひっついてくる。久しぶりに高校の卒業アルバムを開き、なぜか汗がダーダー流れ出した自分も、どこか生きづらさの所有権を主張したくなる部分を持ち合わせている。

親からの期待に沿ってレールをたどっていくことを強いられ、結果お暇を取っている凪は、親の価値観を否定したいと思いつつもその価値観の呪縛の反動で自由を求めてメンヘラ化し、慎二は仮面家族に囲まれた育った結果求められた役割を演じることから抜け出せず、必要以上に言葉足らずになったり不必要なまでに束縛的になったりする。他にも、同級生との距離感やママ友との距離感で苦悩する姿、麻薬のような心地よさを提供するゴンとの距離感に翻弄される姿など、人との距離感について様々な見方を提示していく。

人との距離間に関する絶対的な答えはなくて、2人の間柄の中にある最適解しかない。思い悩むことが減った今なら高校時代の自分にもそう知った顔をして言える。けどこの漫画を読んでいるとそんな知ったかぶりは嘘くさくなるし、俯瞰してみるには親しみやすすぎる。一人一人自分の出会いの中でもがいていくことこそ正しい、そう思わされる。

自分探しの旅で別に自分が見つかるわけでもないのは、そういう距離感を見つめ直すきっかけになる出会いが必ずしもあるわけではないからなんだろうなと思う。お暇だって旅みたいなものだ。

 

ということで、女心を知りたいと思って読み出したこの漫画だが、生きづらさのなんたるかみたいなところをグリグリ掘り下げていく様子がこれからも楽しい感じになっていきそう。この文だけだとめっちゃシリアスなテーマみたいだがあくまで軽いタッチで描かれるし一人暮らしの節約術をこれでもか、と示してくれる(凪のいいところ)のでそんなんも楽しみながら読める。有給取って読んでみてください。

唯一無二

西を見れば赤が残っていて東を見れば深い青になっている空の下、自転車を強めに漕ぎながら家に帰った。

家に誰かが待っているわけでもなく、いつもより早く仕事が終わったからしたいことがあるわけでもなく、途中の西友で焼きそばの具材を買って帰った。

見るもの全てに言葉がひっついてくる感覚は、大体仕事帰りの程々に疲れていて程々に元気のある時によくある。それこそ空を見ても、同じように帰るサラリーマンやそれを乗せたバスを見ても、焼きそばの麺のパッケージにうつるにんじんの切れ端を見ても、色や形を言葉が頭の中をふわっと通り過ぎて行く。たまにこうして文字に残せる程度には頭にその跡を残して行く。

 

移り変わって行く風景の中にいる時、自分の輪郭を感じる。時にそれは限界や可能性と言い換えられるから、即物的でもあり概念的でもある。

世界の中心で愛を叫ぶ、という小説が流行った頃、勘のいい同級生が、どこにおってもそれは世界の中心やないか、と題名に突っ込んだことを思い出す。自分と相手だけが世界だと言い切れるような経験がないまま二十代後半になったなぁ、とわざとらしく思いつつ、それでも、動き続けている限り自分は世界の中心にいる、と感じる。真っ青な空の下自分の輪郭がぼやけていく感覚も好きだけど、移り変わる空の下ここにいることを改めて感じる感覚も大切にしたい。

そんなことを思わせる唯一無二の空だった。

生き物

長く続いているものはなんであれ生き物だと思う。イベントなら形になるために毎回新たな人が関わって連携して必要な情報を必要な箇所に行き渡らせて行く。

大きなミスは何か一つに集約されるというよりかは、そうした連携の中の誤解が積み重なってできていることが多い。処理の途中で是正される事も多いけど、放置されたり間違った対応が積み重なったせいで取り返しの付かなくなる様はちょうどガンのよう。

 

今なら、例えば何をいいたいかが結局わからなかったりする番組があったり、とことんしょうもないなと思う番組があったりしても、そうなってしまうのには色んな原因があったんだろうなと、無責任ながら想像することができる。

世界は誰かの仕事でできている、とはよく言ったもので、積み重ねた調整や努力がねじ曲がってしまうことがいかによくあることか、すなわち多くの人に親しまれる(触れた人の数だけで良し悪しを判定することの是非は置いておいて)優れた作品がどれだけ奇跡的なものか、本当に思い知らされる。

 

生き物は、ちょっとした是正を自分のうちで繰り返す。免疫といったりホメオスタシスといったりするのだと思う。生き物としての仕事にその機能は意識的に付け加えていかないといけない。PDCA報連相なんかもそれにあたる。具体的な事例をあげたらキリがないし特効薬もない。

そんな曖昧なモノは生物として酒の肴にちょうどいい。

仕事について

障害者スポーツに関する仕事をしています。

特段スポーツに取り組んでいるとか、好きなサッカーチームがあるとかいうわけではないですが、業務として関わるようになって以来、その奥深さにぞくっとさせられることがあります。

 

障害をもった方を支援するという立場で働き始めて以来(社会人になって最初の職場がここになります)、多数派と少数派が社会にはあって障害者は少数派として不便を強いられる存在なのだという意識ができたことと、結局みんな自分のことしか考えていない社会において、多数派が少数派を省みることはなかなか無く、かと行って少数派は少数派の中で分断しあっているようにみえるという認識とが両立して強くなっている気がします。

障害者スポーツの面白いところは、そういった区別と融合との間の微妙なせめぎ合いを、「こうすれば上手くやれるんじゃないか」「こうすればルール上平等に取り扱えるんじゃないか」という軽やかな提案で乗り越えていけるところにあると思います。

回りくどい言い方になってしまうのは、現場でそうした対応をする機会が少なく、文書を通して障害者スポーツに関わることが多いからだとおもいますが、そうした軽やかさは、分断されつつある今の社会において、なにか新たな視点をもたらしてくれます。

なんだかとても「理解のあるひと」のような書き方になっていますが、実際は面倒なことも多いです。イベント運営等に関わる中で、結局障害者を支援する輪を広げる要素がどこにあるのかはわからないままです。健常者である自分が考えることですから、当事者の意に反しているようなこともやってしまっているかもしれませんし、そういった微妙さを内部で判断できる人がいないというのも大きな問題です。
それでも、この曖昧さをまずは楽しむところから始めたいと思っています。

「伴走者」という小説があります。ブラインドマラソンという言葉を聞いたことのある人は少ないかとおもいますが、言葉どおり視覚障害者によるマラソンの伴走をするランナーが主人公です。最初のページから、この小説が太宰治走れメロスをオマージュしたものであることが語られます。

小説としてのまとまりや熱量は全編を通して圧巻です。障害について考える時、それをいかに自分ごととして捉えるか、などという固い決まり文句を飛び越えたところで、圧倒的な実力を持っている2人のランナーが協力し、自分と相手との差がなくなるまでに融合する様は、ああこんな体験をしてみたい、自分にもこんな融け合うような体験をすることができるだろうか、と呆然とさせられます。

社会の問題として障害の有無によりうまれる不利益は解決されなければならない。けれども自分が人生を使い切って楽しめるか、そこに意義を感じ取れるかは、結局その人自身にかかってくるものだとも思います。属性がなんであろうと所属がどこであろうと、その点については変わらないのではないでしょうか。

 

仕事だけでは見えないことだらけの分野で、本という存在が視野に幅をもたせてくれていると思います。

とりあえずそんな感じです。

このブログについて

書こう書こうと思ってなかなか書き出せないことが多くて、書いても書いても抽象的な話にしかならないことが多いです。

エッセイストが書く文章のように、日々の出来事に根ざした記録を綴っていけたらと思います。

 

27歳男性。京都在住。婚姻届提出日まであと2ヶ月。