どちらかというとM

京都在住 主に読んだ本の感想を書いていきます

春よ来い

餃子の王将で小説読むやつもうグッナイ 食べてる時にイヤホンで音楽聴いてるやつもうグッナイ

犬食いしてるやつもうグッナイ

 

suchmosのstay tune もどきはここで止めておいて、と食に関して価値観が合わなさそうな人とは長く付き合いたいと思わない。

 

個人的に「餃子の王将」は、カウンター席に座って大勢の料理人が仕事をさばいているところを見に来る場所と思っているので、カウンターに案内されたにもかかわらずそういう仕事人に注目しない人(ぼーっとみることすらせず自分の世界に入り込む人)に、なんだかなぁという思いがつきまとう。

 

なんでこんなネガディブなのかというと、出会い系で知り合った人と丸一日を過ごしてなんか知らんめちゃくちゃ後悔しているからだ。お礼のラインに対しても返事ができていない。あんまりしたいとも思わない。

 

顔や笑い方がタイプじゃなかったのはまぁあるけど、それより「なんかこの感じ知ってる」という既視感があっま。出会い系にどハマりしてるわけではなく、新しい人との出会いがヒリヒリするものになるはず、という期待が軽く裏切られてしまったことがぼんやり虚しかった。

 

小説や映画に対してはまだまだ新鮮味を持って接することができるのに、こと対人関係となるとどうも行き詰まりが生じて来るようになった気がする。共通点がある人とはその共通点の話に終始し、共通点がない人とは遡って共通点を探し出そうとすることに終始している。期待値が高かっただけに既視感があると幻滅する度合いも大きい。当然といえば当然だが新しく知り合った人と自分の過去のことや知っていることを伝え合うのが面倒。

 

一緒にこれからのことを話そう、という気になる人が減ったということなのか、ただただ新しい人と知り合うことが減って感覚が鈍っているだけなのか。

もちろん一年前に比べて先の人生が一年分減っているのには違いないが、それ以上に見通しが立ちすぎていて話す必要を感じない、話したいと思わないというのは大きい。その実何も見えていないのに。この先会うこともないだろうと思うと色々と萎えてしまうのは何故だろう。

 

件のアプリの人が話す愛知の話題は、自分に馴染みある言葉で話されるあまり馴染まないものだった。無理な車線変更を名古屋走りというそうだ、そんなん人によるやろ。栄のこととかも繁華街っていう言葉でひとまとめにするなよもうちょいマニアックなとことか紹介して興味持たせようとしろよ。ほらだいぶネガティブ。

 

 

結局その人もMだったのだ。待つ人。出させる人。施しを受ける人。自分とどこか重なる微妙に卑屈なところが、なんとも退屈で憎らしい。

ありもしない春をまだしばらく待っている。